『怒り』

吉田修一の『怒り』が問うテーマは「人を信じる」ことについて、そこに付帯する人間の生々しい感情が始まりから終わりまで描かれます。読み終わった後、以前に長嶋茂雄が残した「私は選手を信頼していますが、信用していません」という言葉を思い起こしました。作中では他人に思いを寄せる人々が様々な形で相手に対する「信」を表現しますが、そこには表裏一体で存在する「裏切り」に対する恐怖心が見え隠れし、その葛藤がただただ生々しく、著者の心理描写の巧みさ、感情の暗部に入り込んで描こうとする力強さが伝わります。題名でもある「怒」という文字は人間の負の感情が凝縮された象徴であり、一枚の薄い膜で隔てられたところに存在し、いつでも表出する危うさのようなものを感じずにはいられません。登場する人物たちのほとんどは「不器用」な人々ですが、藤田優馬のように世間から見れば「器用」に生きていそうな人物も、実際は多くの葛藤の上に成り立っていることを描写することに、この作品の深みが感じられます。自分自身を支えること、その大切さと侘しさのようなものを感じました。

コメント