「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という言葉に要約されるように、村上龍の『希望の国のエクソダス』は「80万人の中学生の集団不登校」という切り口を通して日本の現況を描いた作品です。集団不登校をリードした存在であるポンちゃんが発した上記の言葉は国としての目標が見つからない国に住む国民、しかも、会社や組織の庇護を受けていない中学生だからこそ、自然に発することができた言葉だと思います。集団不登校を敢行した中学生が組織するASUNAROは一切の無駄を省き、次々と効率的で論理的なアクションを進め、日本に警鐘を鳴らします。それは正に情報と知識と技術に裏打ちされた「強い個人」が集まる集団が起こした行動と言えます。最終的に野幌の土地に実質的な独立国、「希望の国」を築きますが、そこに欲望は存在しません。その点が自らが望んでパキスタンで地雷処理に従事しているナマムギとの違いだと感じます。ASUNAROはネガティブからゼロには戻せたかもしれませんが、ネガティブからポジティブに進んだナマムギの生きるエネルギーや活力には及びません。結局、「希望」は国から与えられるものではなく、個人が見つけるべきものであり、国は可能な限り見つけやすい環境を提供する義務があると改めて感じました。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」という言葉に要約されるように、村上龍の『希望の国のエクソダス』は「80万人の中学生の集団不登校」という切り口を通して日本の現況を描いた作品です。集団不登校をリードした存在であるポンちゃんが発した上記の言葉は国としての目標が見つからない国に住む国民、しかも、会社や組織の庇護を受けていない中学生だからこそ、自然に発することができた言葉だと思います。集団不登校を敢行した中学生が組織するASUNAROは一切の無駄を省き、次々と効率的で論理的なアクションを進め、日本に警鐘を鳴らします。それは正に情報と知識と技術に裏打ちされた「強い個人」が集まる集団が起こした行動と言えます。最終的に野幌の土地に実質的な独立国、「希望の国」を築きますが、そこに欲望は存在しません。その点が自らが望んでパキスタンで地雷処理に従事しているナマムギとの違いだと感じます。ASUNAROはネガティブからゼロには戻せたかもしれませんが、ネガティブからポジティブに進んだナマムギの生きるエネルギーや活力には及びません。結局、「希望」は国から与えられるものではなく、個人が見つけるべきものであり、国は可能な限り見つけやすい環境を提供する義務があると改めて感じました。
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